ロボットに乗って戦うプリキュアが明らかにした「ケアの倫理」の意義

分割2クールでオンエアされていた『輪廻のラグランジェ』も2期の最終回までがついに済みました。

輪廻のラグランジェ公式サイト→ http://lag-rin.com/

1期の1~3話の出色の出来栄えによって高まった期待に比して、4話以降の展開にはいささか「?」な部分もありましたが、すべて通して見てトータルで評価するなら、二重丸とはいかないにしても概ね「まるっ!」だったと言えるでしょう。

  


個人的には…

→1期の4~6話くらいまでは毎回キリウスたちのウォクス奪取作戦と、それを撃退するまどかたちの話にする
→ムギナミのイグニス搭乗もその展開の中で
→6~7話でまどかたちと仲良くなってしまったムギナミの葛藤と、そこへ満を持して地球へやってくるヴィラジュリオ
→ムギナミの「イース→パッション展開
→8~10話が、実際の7~10話の再構成相当
→で実際の11~12話へ

…といった感じの1期が望ましかったのですが、とりあえずは脳内補正でなんとかします。

また3機のウォクスにはいわゆる属性設定、すなわちアウラは風、リンファは水、イグニスには炎という性質の振り分けがあったはずなのですが、この設定があまり積極的には活用されずじまいだったのも、もったいない気がします。
実際、機体や航跡の色分けぐらいですよねー。
せめてスマイルプリキュアの半分くらいでも、もっとそのテの描写があれば、バトルシーンがより盛り上がったのではないでしょうか?
……あっ、だから、ウォクスの武器はおもにファロスの技術陣によって架装されていましたが、それとは別にオーパーツのコアに由来する「浄化技」か何か(およびそれらが有用なシチュエーション)があればよかったのかもしれませんね。
「アウラ・プレシャスタイフーン!」
「リンファ・ロイヤルブルーウェーブ!」
「イグニス・バーニングホーリーフレイム!」

……みたいな?


まぁ、このような妄想は、ひとえにワタシがこの作品に対してプリキュア的なものを求めていた――、すなわち「異世界からやって来た妖精の不思議な力によって伝説の戦士に変身するのではなくロボットに乗って戦うプリキュア」を期待していたからに他ならないせいではあります。

以前の記事にも書いたとおり、この【 プリキュア的バトルヒロインもの + ガンダム的ロボットアニメ 】という合わせ技に挑んだ『輪廻のラグランジェ』の試みは、高く評価されるべきだと思います。

ただ、少女たちが友情を育みながら自らのそんな大切な日常を脅かす敵と戦うというプリキュア的要素を主眼としてみた場合、この作品が本家プリキュアシリーズにどこまで肉迫できたかという点では若干アヤシイというのも否めません。

また逆に、ロボットアニメとして見た場合は、本来あるべき巨大メカどうしがケレン味たっぷりのバトルを繰り広げる迫力などが、そうした相応に含められているプリキュア的要素の制約によって減殺されてしまっているという一面もなきにしもあらずでした。

そういう意味では、試みとしては意義があったが、その成果は未だ道半ばのまま終わった――。
定石に頼らずに、新しいパースペクティブを拓いて高みを目指すというのは、げに難しいものではあるのでしょう


しかし、それでもこの『輪廻のラグランジェ』が、プリキュア的な少女たちの戦いにロボットを持ち込んだ、逆に言えばロボットアニメにバトルヒロインもののコンセプトを導入した物語を描いてくれたことで、ハッキリしたことがあります。

それは、何らかの力を手にした女の子たちが戦いに身を投じるとき、その論理もしくは倫理はいかなるものであり、専ら男性によって戦いが担われる場合とどこが違うのか?
 という点にかかわること。
それがロボットアニメという共通のフォーマットに乗ることによって明確になったのです。

その点を、もう少し整理してみましょう。


通常、変身もしくはロボットと、それによるバトルが描かれるアニメというのは、複数の陣営間での対立~戦争が舞台背景として用意されています。
日本のアニメなどにおいては、そのうちの一方が全面的に絶対悪であるように描かれることは主流ではないはずですが、それでもそこではかなり大上段に構えた人類にとっての正義が、戦いの正当性を根拠付ける論理として立脚されていることもまた珍しくはないでしょう。

しかし正義に則って世界を秩序づけることで平和をもたらそうという発想は、対立する陣営間の主張のぶつかり合いに陥る危険性もまた高いです。

アニメであれば、最終回までに何らかの和解のいとぐちは見つかるのが通例ですが、下手をすると双方のトップの意地の張り合いの果てに、例の『宇宙戦士バルディオス』のような超鬱バッドエンドや、元祖・輪廻アニメ『伝説巨神イデオン』のように全滅エンドに至ってしまうこともないではありません。
少なくとも双方が確信犯的に自分たちこそ正義と思っていて、それぞれの言い分に一理あることが視聴者にも了解可能に描写されている作品の場合、物語の決着のつけ方はじつに難しいものです。

そして現実世界に目を転ずれば、そうしたループにハマってしまい、憎しみと報復の連鎖から抜け出せない紛争事例などは枚挙に難くありません。

これが、いわば【 正義と秩序の論理 】の限界だとも言えます。


翻って、いわゆる女の子アニメでは、たとえ変身とバトルがある作品であっても、主人公らが関わるのが「社会構造的に対立を強いられた陣営間での互いの正義をかけた戦い」であったりはしないです。

現在の『スマイルプリキュア』でも、基本スタンスは「自分たちの平和な日常を守るために、それを侵害しようとする存在を撃退する」であり、これはセーラームーン以降(あるいは以前から)、バトルヒロインものに脈々と続く伝統でもあるようです。

そこで肝要をなしているのは、仲間との関係性の中で相互に配慮しあい、気持ちを尊重しあい、ときに癒しあうことの大切さ。
そしてそんな中で、より多くの人々との間で共感・協調・共生の輪を広げていくこと――。

すなわち【 ケアとキュアの論理 】とでも呼べるものであります。


ただ1990年代のアニメ評では、ジェンダーの観点からセーラームーンに好意的な論調の中でも、この点がマイナス評価されるケースはあったのではないでしょうか。

つまり男の子アニメでは、男性主人公が公の組織に正式に属し世界を脅かす敵と人類の平和のために戦っているのに、女の子アニメでは、たとえ形のうえでは男の子アニメと同じように主人公が変身して悪と戦うにしても、しょせん身近でプライベートな日常世界に矮小化された物語しか与えてもらえていない、天下国家を語る資格があるのは専ら男であり、女性が二級市民として描かれることからは脱却できていない――というわけですね。

しかし、それは一面的な評価に過ぎたと考えることも可能です。

かつてキャロル・ギリガンも著書『もうひとつの声』の中で、「正義の倫理」に対置すべき「ケアの倫理」について述べました。

例えば男の子集団では、遊んでいるときに何かトラブルがあった際、たとえ友人関係にヒビが入るとしても、あくまでもその遊びのルールに従って解決しようとするのですが、これは男の子たちが社会化のプロセスにおいて「正義の倫理」を称揚されるからと考えられます。

ところが同じシチュエーションでも女の子集団では、誰も傷つかないですむ方法を模索して、ときにはルールのほうを変更しようとする傾向が見られるといいます。

昔の男性心理学者たちは、このことに対し、正義感に基いたルールの順守によって秩序を組み立てることがひとつの道徳との観点から、男の子たちの採る方法のほうが発達段階の高いものと評し、女の子たちの態度は劣ったものであるとみなしました。

しかしそこで、女の子たちは男の子たちとは異なる価値規準で行動しているだけであると訴えたのがギリガンです。

すなわち女の子たちは、個別の状況に根ざして相手を思いやることで周囲との関係性を深めようとしているのであり、それはいわば「正義の倫理」ではない「ケアの倫理」なのだという主張だったのです。

もちろん「正義の倫理」と「ケアの倫理」の、どちらが正しいとか優れているということではなく、相補的に運用することが本当は望ましいのでしょう。
しかし、社会全体の特権的中心部が男性メインで構成されがちな構造の中では、このうちの「正義の倫理」のほうがアドバンテージを持ってしまっているのも確かです。
そんな中では、不当に貶められているとも言える「ケアの倫理」の評価をもっと高めていくことも意識されてしかるべきではないでしょうか。


で、ここであらためて『輪廻のラグランジェ』です。

このアニメでも、やはり2つの宇宙勢力がゆえあって敵対関係にあり、一触即発の緊張状態になっています。
地球はそれに巻き込まれる形で物語は進行し、そのために主人公の少女が住む街(千葉県鴨川市)が何度か戦場になってしまったりもするわけです。

二大陣営のそれぞれのトップは、平和を望んでいつつも、国家の安泰とか、国民の安寧への責任とか、国王としての務めだとかいった論理や、何より男どうしのパワーゲーム的な国王としての沽券の競い合いに翻弄され、結果として戦争は回避できず、悲しむ人が出ることを止められません。

ところが、そこで主人公である地球人の少女と二大陣営各々出身の2人の少女との間に、ひょんな経緯から友情が育まれ、「みんなで仲良く暮らしたい」という3人の真摯な願いが生まれます。
「誰にも悲しい思いはさせたくない」
「友達が嬉しいと、自分も嬉しい」
風光明媚な鴨川の街を舞台に、楽しい日常を過ごせるということが、どんなに素晴らしいか!

3機の主役ロボットに搭乗することとなった3人の少女たちは、その願いを強いモチベーションに、大人の男たちが止めることをできないでいる戦争に割って入ります。
そしてやがて、ついには二大陣営を和解へと導くのです。

いかがでしょうか?

これはつまり、【 正義と秩序の論理 】が回避できずに起こしてしまった争いを、【 ケアとキュアの論理 】が解決するプロセスが描写されたということになります。

「正義の倫理」の行き詰まりを、「ケアの倫理」が超克したと言い換えてもよいでしょう。

男の子アニメとしての出自を持つロボットアニメのフォーマットをベースにした上で、女の子向け魔法少女アニメよろしく、主役ロボットのパイロットを全員女性で設定した『輪廻のラグランジェ』の意義は、このように、それぞれが拠って立つ論理・倫理が如何なるものあって、そうして、そのうちの一方が秘めたポテンシャルの大いなる可能性をわかりやすく描いたところにあったと言えます。


なお、「正義の倫理」→【 正義と秩序の論理 】が男性的規範で、「ケアの倫理」→【 ケアとキュアの論理 】は女性的な規範……という単純な割り切りには慎重であるべきなのは言うまでもありません。

たしかにアニメ表現における一種の表象としては、そのように描いたほうがわかりやすいというのもあるでしょう。
また実際の世界が男女二分的に構築されている中では、男性社会と女性社会でそれぞれ異なる規範がデファクトスタンダード化されるということも現実としてはありえます。

それでも、安易な二項対立に回収されるべきではないし、もしもそういう二元論に与してしまったとしたら、それはある意味「ケアの倫理」→【 ケアとキュアの論理 】からは離れてしまうと言ってもよいでしょう。


世の中には、「何が正しいのか?」などと理詰めでばかり考えていると、どうしたらいいか判断に迷うことは多々あります。

そんなときは、あなたの心に響く声――『もうひとつの声』――に耳を傾けてみるとよいのかもしれません。

どうするのが自分にとって心地よいのか。
そんな幸せな気分を、どうやったら多くの人々と互いに共有しあえるのか。

そう考えていくこと、すなわち【 正義と秩序の論理 】よりも【 ケアとキュアの論理 】に添うことで、案外と簡単に答えが見つかるかもしれません。
次記事も参照)

そう、いちばん大切なのは「義務や正義では動かない」こと、そして「ルールは私の心」なのではないでしょうか?

 BL20121009_lag-rin_G.JPG
(サントラCDライナーノーツより)


  
  ↑       ↑
まさかのそんな重要テーマソングだった『ジャージ部のうた』はサントラCDに収録
そして2期OP主題歌『マーブル』作詞は待ってました!岩里祐穂さん


◎ギリガンの「ケアの倫理」については、googleで探してみたところ、こちらのサイトなどが簡潔でわかりやすかったです。
http://chikaova.blog123.fc2.com/blog-entry-138.html
かなり細部を切り詰めた記述ですが、その分端的に要点を押さえた説明になっています。


◎全話を見終わってみると『輪廻のラグランジェ』というタイトルで、いかにも意味深そうな雰囲気を醸し出していた「輪廻」という単語は、じつはあまり深読みする必要はありませんでした(たぶん; …仏教用語に詳しい方などからのご教示歓迎)
むしろ注意すべきは「ラグランジェ」のほう。
これは作中では花の名前ということになっていますが、むろん語源となれば「ラグランジュ点」などで知られる科学者 Joseph-Louis Lagrange の名前が意識されているのは間違いないでしょう。
で、この「ラグランジュ点」、そのなんたるかをガッツリ解説する役目は文系のワタシには荷が重いので、ものすご~~~く雑駁な説明になりますが、要は「宇宙空間における天体どうしの重力のバランスが取れる場所」ということになります。
これはむろん作中での宇宙の二大勢力の対立に巻き込まれた地球の立場を暗示していると解釈できますし、その縮図である主人公ら3人の少女の関係性にも敷衍できるかもしれません。
しかし、複数の天体の力関係の均衡点というのは、社会の中で個々人が自分の立ち位置を調整しながら見つけていく作業のメタファーでもありえます。
そして、そういう個人が集まった社会において、多様な存在のバランスを調整しながら、ひとりひとりの「ラグランジュ点」が確保された共生的な社会関係を築いていく際には、やはり【 ケアとキュアの論理 】が重要な役割を果すことでしょう。
…と考えると、タイトルに「ラグランジェ」とついていたことの意味は、やっぱり深いですね。
あと英題は「 Flower declaration of your heart 」で、直訳すると「あなたの心に花のお告げ」みたいな感じでゼンゼン「輪廻」にも「ラグランジェ」にもならないのですが、これって、お互いの気持ちに寄り添い合うことで、それぞれ自分の心を大切にしていきたいね――という「ケアの倫理」の要諦に則して超意訳するなら、つまりアレですね、【心の花を咲かせよう】!
……………ハートキャッチ・ウォクス!! (^o^;)


◎「」とか「声を聞く」ってのがじつはさりげなく『輪廻のラグランジェ』における重要キーワードだという考察は、検索で見つけたこちらのサイトに興味深く書かれています。
http://tsukikanade.digiweb.jp/html_anime/lagrange_s2_entry_011.html
それがこのギリガンの『もうひとつの』と、こんなふうにつながるというのも偶然の妙かもしれません。


◎女の子アニメでの主人公たちの主たる行動原理が「ケアとキュア」なのだとしたら、今日ではバトルヒロインものの代名詞となっている『プリキュア』シリーズが、そもそもプリ「キュア」なのは必然と言えるかもしれませんね。
ちなみに先日10/7放送の『スマイルプリキュア』第34話「一致団結!文化祭でミラクルファッションショー!」は、主人公らが通う中学校の文化祭でのクラスの出し物が多数決でファッションショーになったものの、そのことに頑なに反発するひとりの男子生徒を主人公らがいろいろ慮っていく…というのがストーリー展開の主軸になっているお話でした。
※朝日放送公式サイトの「あらすじ」ページ
http://asahi.co.jp/smile_precure/story/backnum_34.html
民主政治における多数決というのは、多数派意見が正義だというわけではなく、よく話し合って意見の調整が図られた末に最後の手段として便宜的に採用される議決方法だというのが建前です。
しかし学校の文化祭などでは、現実には話し合いのためのホームルームの時間も限られている中では、何かを決めるためには早々に多数決に頼る場面も少なくありません。
そしてもしも、いったん決まったら最後、多数決でみんなで決めたんだから全員従え、異論は認めない……などとなってしまったら、やはり尊重されない人を作ってしまう危険は大きいです。
これがまさに【 正義と秩序の論理 】の限界がごく身近な場でも露呈する代表例でしょう。
しかしスマイルプリキュア34話では、いったんそれを描写した後、その強く反発していた男子生徒がやりたかった内容を取り入れ、、他のファッションショー以外に賛意を示していた生徒の希望もすべて包摂する形でファッションショーの中身が組み立てられ、そうして全員が満足できるようにする――という解決方法が描かれていました。
対立する意見のうちのひとつだけが正義化するのでなく、ちょっと歩み寄ってアイデアを出し合えば誰もが納得できる落とし所はある。
誰かを排除して成り立つ社会などしょせん欺瞞であって、誰も犠牲にしないための知恵と工夫の上にこそ真の幸せは享有可能である。
つまるところ、【 ケアとキュアの論理 】によって対立を力に変える様子が示されたのです。
こうしたことが丁寧に描きこまれる『スマイルプリキュア』は、やはり日本のアニメの良心を体現した作品なのかもしれません。
と………
………………
…思ってたら、その翌週10/14放送の第35話は「プリキュアがロボニナ~ル!?」ですか!?
※朝日放送公式サイトの「あらすじ」ページ
http://asahi.co.jp/smile_precure/story/backnum_35.html
おぃおぃ、ここで本家プリキュアがロボットかよ(^o^;)

案外これはラグりんの3期でアステリアちゃんがウォクスの新しい機体に乗ることになる伏線なんじゃなイカ? きっと名前は「ブロント」、属性は雷で、イメージカラーが黄色なのでゲソ#nitiasa #precure

— 佐倉智美ツイッターから (@tomorine3908tw) 10月 7, 2012


領土問題などは、白黒ハッキリしようとすれば戦争で勝負をつけるしかなくなるという、典型的に【 正義と秩序の論理 】では解決できない争議だと言えます。
その意味では、尖閣諸島も竹島問題も、どちらかが犠牲にならず双方が納得できて皆得な解決方法は【 ケアとキュアの論理 】からのみ生まれ出てくるだろうと言えましょう。
自国の領土だという双方の主張は相互に尊重しあいながらも決着は付けずに、まずは資源利用などを共同プロジェクトでシェアしていく……くらいのアイデアを思いつくのは、そんなに難しいことではないはずなんですけどねぇ…。


   
  ↑       ↑       ↑
残念ながらギリガンの『もうひとつの声』邦訳版は入手困難なようです
(中古を誰かが出品する日もあるかもしれませんが)
図書館で読むか、もしくは英語で原著を!?
なお今回私があらためてインスパイアされた直接のきっかけは、
「女子」の時代!』のp.30~31での引用部分
この本は他にも「少女マンガ」や「鉄子」など興味深いトピックが…

この記事へのコメント

  • ちかおばちゃん

    トラックバックありがとうございます。
    なるほど、いまどきのバトルヒロインはケアの倫理を内在させているわけですね。女の子が陣取りゲームに向かうようになったら末期かも?

    ちなみに内田樹センセイはウルトラマンを大仏さまと言っています。
    2012年10月10日 15:57
  • ソバスチン

    暫く時間が掛かりまして申し訳ありません、前記事のコメント重複は失礼いたしました。
    レイアースの件ですが、原作者が大きく関わってきた2部の展開に問題がありまして…
    (正直1部のラストも納得いかないのですが)
    個人的に感じたのは、回り道な展開が多く全体的な物語の進捗を妨げた気がしまして。
    何より作中の異世界「セフィーロ」の作りこみが今二つでした。ラストもご都合主義でしたね。
    同ジャンルの先駆けダンバインのバイストンウェルと比べますと…

     さてラグりんについてですが、作中におけるまどか達ジャージ部の活躍に関しては概ね満足していますが
    やはり全体的な展開は1期、2期通してもうちょっと頑張っていただきたい気がしました。
    私は生粋のアニヲタなせいかどうしても過去の知識と照らして作品を見る癖が出来てしまいまして…。
    「総監督 佐藤竜雄」の文字を見たことと最初のイメージから「飛べ!イサミ」や「学園戦記ムリョウ」
    みたいな日常と非日常、シリアスと生活臭がゴッチャになった独特な世界観を期待していたのですが…モーパイが忙しかったんでしょうね。
    お気楽なジャージ部の活動とシリアスなポリヘドロン千年問題との絡ませ方が50:50になっていないように見受けました。
    只、個人的には最終回のエピローグ的なシーンは大好きですwあれをサトタツスタイルだと思っていただければ問題ありませんw
     
     佐倉様のおっしゃる【 正義と秩序の論理 】よりも【 ケアとキュアの論理 】という
    考えは少女戦士アニメにとっての醍醐味であることは男である私も理解できます。
    プリキュアの生みの親、鷲尾天Pも「プリキュアは公憤で戦う戦士ではない。」と明言してますし。
    戦いを終えたプリキュア達が「普通の女の子」に戻るのはそういった理念が反映されて…1作品だけ破った不届き者がいますが…
    たぶんイタチの最後っ屁でアピールするつもりで入れた変身バンクなのでしょうがああいう素人考えは大嫌いですw
    あと奏(あーw名前挙げちゃったよw)が「プリキュアの自覚を云々」なんて言っていましたがあれも違いますねw
    歴代戦士たちは助けたいものを助けられないもどかしさは感じてもプリキュアとしての義務感とかは重要視していませんでした。

    >もちろん「正義の倫理」と「ケアの倫理」の、どちらが正しいとか優れているということではなく、相補的に運用することが本当は望ましいのでしょう。
    これに関して、ふっと思い立った新作アニメがあります「超速変形ジャイロゼッター」2話です
    若いアニヲタはギャグアニメ監督と勘違いしているであろう高松信司氏総監督によるアーケードゲーム原作のアニメです。
    EDのプリキュアダンスばかりが注目されていますがガンダムAGEで強いられた私の心を癒してくれる今期ダークフォースです。
    2話はヒロインの稲葉りんねがジャイロゼッター(プリウスα)のドライバーになるエピソードですがその動機は古風ながらも気に入りました
    1話でライバードのドライバーになり悪の組織と戦う事になった主人公、轟カケルに戦う事を辞めるように詰め寄るりんねでしたがカケルは
    「誰かが傷つく所なんてみたくないだろ?」返しました。それに対してりんねは「だったらあんたは誰が守るのよ…!」と心の中で呟くのです。
    簡素な表現ではありましたが世のため人のために戦うヒーローと大切な人のために戦うヒロインとの対比が上手く機能していて非常に熱かったです。
    AGEのウェンディにもこんな熱い展開があれば…
    現にプリウスαには原作ゲームにおいても回復機能があるそうなので正にケアと言ったところでしょうか。
    因みに主人公、轟 駆流(カケル)の声の出演はキュアマーチの井上麻里奈さんです。
    次回のハッピーロボ回ではカケルの台詞「ゼツボー的にかっけェ!」をマーチに言って欲しいような欲しくないようなw
    2012年10月12日 21:56
  • tomorine3908-

    遅くなりましたが…

    ちかおばちゃんさま
    コメント返し、ありがとうございました。
    今後ともよろしくお願いいたします。
    内田樹さんは今まであまりマークしていなかったのですが、せっかくなのであらためてチェックしてみたいと思います。


    ソバスチンさま
    情報ありがとうございます。
    もちろん「女性は『ケアとキュアの論理』なんだろ? だったらやっぱり補助ケア役割がお似合いでイイじゃないか」となるのは本意ではないのですが、それでもアニメ表現の中にも、「ケアとキュア」と「正義と秩序」がバランスよく描かれることは、作品世界の深みを増すうえでも、やはり重要でしょうね。
    で、『超速変形ジャイロゼッター』ですが…
    ………
    いゃ、ハマっちゃったじゃないスか!
    どーしてくれるんだ(^o^;)
    3話をオンエアで見て、見逃した1話と2話も配信でリカバリーしましたが、仰るとおりイイ味が出てます。
    ヒロイン稲葉りんねの描かれ方も(フェミ的に見ても)好感が持てます。
    まぁ「ロボットアニメ好きだった元男の子」にとってストライクなツボの押さえ具合というのも大きいですがw
    とはいえ、いちおうは「男の子向けアニメ」という建前で制作されているのでしょうが、本質的には視聴者の性別不問の作品にもなっているでしょう。
    EDのCGダンスが暗示しているように(!?)まさに「不思議な力に選ばれた子どもたちがロボットに乗って戦うプリキュア」の男女混成バージョンといったところかもしれません。
    てゆーか「ロボットが好きなのは男の子」というのも社会の思い込みですから。
    …あ、だからスマプリ35話のロボット回は女児視聴者に「ロボットアニメもプリキュアと同じでおもしろいんだよ。だからジャイロゼッターも見てね」と訴える、バンダイのステマだったとか?^^;
    余談ですが、いくらジャイロゼッターにハマったからといって、リアルに運転中に「超速変形!」とか叫ぶのはちょっとイタいです。 ←やったんかい(^o^;)
    2012年10月19日 23:07
  • 琵琶さざなみ@Mickey_Trunk

    いつもTwitterでお世話になっております。琵琶さざなみです。
    たびたびすみません。
    スイプリの話題でそれましたが、現在、自分で「プリキュア風の変身ヒロイン」の物語を作る計画を進めており、佐倉さんの「ケアとキュア」をじっくり読んでみようと思い立った次第で、このブログにやってきました。

    ちなみにイラストは描けないので、こんな感じで外注中。例えば、千利休も自分で茶碗を焼いたわけでないので、こんな形もアリだと思っています。
    https://www.crowdgate.net/work/project/requestindex/jobInfoNum/884

    物語を考えている中で、「ケアとキュア」はとても有益な示唆があり、頭の中に浮かんでいるキャラクターたちや物語の展開に「正義とケア」で整頓するとかなりすっきりしてきました。
    ただ、私自身が「正義と秩序」寄りであることや、理解が及んでいないなぁと感じるところもあり、「性同一性障害者の婚姻による嫡出推定」のような不本意な形になったら申し訳ありません。

    「正義の倫理」と「ケアの倫理」は紹介されたサイトを拝見した限りでは「問題解決の手法」だと解釈しています。
    それに対して「正義と秩序の論理」と「ケアとキュアの論理」は「行動の動機」と「問題解決の手法」に分解できるのかなと思います。
    おそらく手法から、それを支える動機を佐倉さんが考えられたものかなと思うのですがいかがでしょうか。
    動機も手法も「キュアとケア」であるプリキュアやラグランジェはわかりやすいのですが、動機だけ、手法だけが「キュアとケア」である場合というのがわかりづらいと感じました。

    例えば、特筆されていたZガンダムのカミーユ・ビダンが「ケアとキュア」の側であるというのはピンとこないです。
    それはカミーユが行動の動機に「政治と秩序」を背負っていなくても、解決の手法として「ケアとキュア」を使っていたという(私には)記憶がないからです。最後にまとめて見たのが10年以上前なので忘れているだけかもしれませんが、ヤマアラシを毛布にくるむようなカミーユは思い浮かびません。

    これがZZガンダムのジュドー・アーシタなら「ケアとキュア」の人物だと納得しやすいです。
    結局戦争に巻き込まれたものの、最初の頃の物語は「大人の戦争(正義と秩序)なんて知らない。家族と友達の生活の為にガンダムでジャンク屋をやる(ケアとキュア、ルールの転換)」という展開で動機も手法も「ケアとキュア」です。
    物語後半でも「ニュータイプなんて知らないね。俺はリィナを助けるだけだ」といってハマーンに「この期に及んで私(わたくし、公の対比概念として)の感情で動くとは」と叱られています。そういう関係は最終決戦まで続き、最後にはハマーン様とわかりあえる一歩手前行きました。

    ●動機:ケアとキュア 手法:キュアとケア
    ・プリキュア
    ・輪廻のラグランジェ
    ・ジュドー・アーシタ(ZZガンダム)

    ●動機:ケアとキュア 手法:正義と秩序
    ・カミーユ・ビダン
     前述したとおり、私にはよくわからないです。手法の部分が思い当たらず、戦争という状況下で「正義と秩序」寄りの行動が多いと思います。
    ・シャア・アズナブル
    ・アルベルト・デスラー
    ・エターナル館長
    ・惣流・アスカ・ラングレー(エヴァ)
     自身の個人的な心の声(キュアとケア)を動機に持つが、正義と秩序の仮面をかぶって、正義と秩序による問題解決をはかる。
     いずれも自分が求める居場所(スマプリでの「友達」)を、社会的な評価(正義と秩序)によって得ようとしています。
     「ケアとキュア」のダークサイド、「正義と秩序」によって相補的に補われなくてはならない点かと思っています。

    ●動機:正義と秩序 手法:ケアとキュア
    ・坂本龍馬
     薩長同盟や大政奉還、商業による諸外国との協調。戦いを避けつつ、みんなが納得できる形で新しい日本を作ろうとした、まさに「ケアとキュア」の手法です。
     しかし、龍馬は志士であり、天下国家(正義と秩序)を動機にした人といえるでしょう。
    ・上杉鷹山(米沢藩主)
     「正義と秩序」に凝り固まって灰のようになっていた藩政を、「ケアとキュア」の工夫で改革した人物。
     それでいて封建君主という「正義と秩序」の体現者。

    ●動機:正義と秩序 手法:正義と秩序
    ・レドフ・ヒス副総統(ヤマト2199)
    「これが・・・、これが指導者のすることか?デスラァァァァァァ!!」
     ガミラスを支えた偉大な政治家。デスラーに対する批難は「正義と秩序」に基づく価値観と思います。

    ・総統メビウス
    ・ビッグブラザー(オーウェル「1984年」)
    ・インキュベーター(まどか☆マギカ)
     いずれも正義と秩序の怪物です。


    ●番外:もう怠け玉でいいよ
    ・碇シンジ
     誰も自分に「ケアとキュア」を与えてくれないと、自分の殻に閉じこもっている。
     一度は「正義と秩序」の中で価値を認められるも直後に破壊される。
     一度は「ケアとキュア」によって救いを得た……と思いきや、世界中から憎まれる存在になってしまい、また閉じこもってしまう。


    以上が私の「ケアとキュアの論理」の理解です。
    やや表面的になりすぎているのかもしれないという懸念はありますが、こんな風に読解した人間もいるというのが今後の参考になると嬉しいです。
    2013年10月13日 23:57
  • tomorine3908-

    琵琶さざなみさんからの情報、なかなか詳しく示唆的です。
    動機と手法に分けて捉える視角は重要かもしれませんね。
    カミーユ・ビダンについては、たしかに私の主観的な印象が現在の記憶しているイメージに占める割合が大きいので、見直してみる必要もありそうです。
    ただカミーユは問題解決の手法として持っているものに限界があったからこそ、最後「出してくださいよ~」になってしまったという説もあったような…(実際にもう少しケアとキュア寄りにシフトした?21世紀に再編集された新訳劇場版では結末が変わったと聞いてますし)
    …Zガンダムに「浄化技」か何か装備されてたらよかったのにw
    2013年10月22日 17:12
  • ちいさいおおかみ

    …でも、『∀ガンダム』が存在する限り、あらゆるサンライズ公式『ガンダム』は全肯定されるので、『起動戦士ガンダムZZ』も絶対映画版の後に存在するので、カミーユが何らかの形でサイコクラッシュアクシデントに見舞われるのは歴史の必然です。それとZZ2号機がいきなり予備パーツ扱いされたのは、何か関係があるのかも知れませんし。
    2014年01月13日 18:52
  • 横槍失礼

    >琵琶さざなみさん
    いろいろ省きますが、カミーユは物語の立ち居地としても一人物像としても、男性でありながらかなり強く女性性をも併せ持ったキャラクターです
    彼がアーガマで与えられた部屋には、枕元に簡易的な仏壇(もしくは神棚)を備えています
    彼は自分が戦った相手だけでなくこれまで戦争で死んでいった全ての多くのものたちを受け入れ、供養しようとしていたわけです
    だからこそ最終的にシロッコを討てたし、TV版ではあのような結末を迎えてしまったのです
    彼は一般人でありながら所属していた場所が軍事施設であり、またガンダムのパイロットであったがために武力という男の力を行使せざるを得なかった場面が描写されますが、基本的には相手との対話をもって解決を図ろうとしています
    戦闘中にもしゃべるし、戦場を離れた場所でも敵を相手に言葉をかけます
    おそらくそういう点が佐倉さんのおっしゃる「ケアの倫理」という彼の評価に繋がっているのではないでしょうか?

    佐倉さん>
    初めまして 1年も前の記事に書き込んでしまってすみません
    佐倉さんの意図しているところとずれてしまっているかもしれない話で申し訳ないですが、わたしは上記のように捉えました
    修正などありましたらお手数ですがよろしくお願いします
    わたしも佐倉さんに語っていただければうれしいですし、楽しみです
    いきなりの長文、失礼いたしました
    2014年10月07日 13:53
  • tomorine3908-

    「横槍失礼」さまからのコメント(ありがとうございました)、琵琶さざなみさんがいろいろ整理した中にもありますが、ワタシとしてはカミーユの「動機」の部分にやはり「ケアとキュア」的なものを強く感じてたというのはあります。そして当時のロボットアニメの物語枠内ではそれを適切に具現化する手段がなかったということではないかなと。
    ただ一度Zガンダム見直さないとけっこううろ覚えなところもあります;どうも私が覚えている以上にカミーユがニュータイプのことを含めて地球圏の行く末のことを背負う要素も、たしかにあったようでもあります。
    それでも「うろ覚え」ゆえに逆に、カミーユってべつに「正義」とか「使命」よりも単に自分と自分が思う人にとってより心地よい世界を求めて戦ってたよね……という印象が今も強くに残っているのです。
    あと「敵との対話(コミュニケーション)」という点では、カミーユが月でサラと出くわした際のやりとりとかも印象的でした。強引にソフトクリームを一緒に食べて「普通の」若者どうしのようなことをしようと試みるところとかも好きなところです。

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    あ、古い記事へのコメント等々は無問題ですよ
    2014年10月09日 23:40

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