さて、「佐倉満咲、中学を卒業&高校に入学する」のとおり、この4月から高校生としての生活がスタートしている我が娘・佐倉満咲さんですが、時はすでに12月、早いものでもう2学期の成績表をもらってこようかという時期。言ってる間に1年が経とうという勢いです。
《佐倉満咲さんの高校生活@小説版》にあっては、ちょうど今頃は作中いちばんのコテコテドロドロの展開なタイミングですが(おかげで百合百合な名シーンも(*^^*) →第4巻)、あいにくリアルのほうではそんなに問題の渦中で中心人物になることもなく、まぁまあ平穏にノリノリな高校生ライフを楽しんでいるようです。
まぁそりゃあ現実がそう都合よく作ったようなドラマチックさにはなりません;
(たまに事実が小説よりも奇々怪々になる日もないではないですが)
でもって、例の「小説版での青木太陽クン相当キャラ」である鮎原光太郎クンとは、その後も懇意にしているようで、やはり波長はかなり合うのでしょう、親密度は1学期のころよりも、夏休みや2学期の学校行事――文化祭などを経て、さらなる上昇を見せています。
学校でもよく共に行動してたりするようで、その仲睦まじい様子に周囲からは「付き合ってるの?」などと問われることもあるそうです。
そして、そのたびに否定するものの、その質問のあまりの頻繁さには辟易する日々だとも。
本人たちにとっては、あくまでも仲の良い「友だち」。
満咲としても、また相手である光太郎クンにとっても満咲に対して特段の恋愛感情を意識、しているわけではないようで、カレシカノジョの概念に回収されない2人のこの形は、どうやらお互いのニーズにマッチしたすこぶるここちよい関係性であるようです。
思えばたしかに、男女が仲が良ければ「付き合ってる」のだ……というのも一種の社会通念であり、思い込みです。
まずもって、「恋愛は男女で」というふうに強固に規範化されているのが現行の異性愛主義の社会です。そのキモは、そうした社会関係の場における「同性愛禁忌」「同性愛嫌悪」の標準化だと言えます。
しかし、それが「異性愛主義」のA面だとすると、いわばB面にあたる、同じ根源から形を変えて立ち現われている事象が、「男女だったら恋人なはず」「男女で単なる友情なんてありえない」というような圧力でしょう。
これは結果として、男性ジェンダーを割り振られている人と女性ジェンダーを割り振られている人とが、恋人として「付き合う」以外の方法で親密に交流することを不可能化し、以てこの世界における「男女の分断」を引き起こし、両者の間に断絶の壁を築くことで双方のディスコミュニケーションを生成しています。
それが各種の性別役割規範などと結びつき、さまざまなジェンダー問題・性差別の温床となっているわけですから、社会的悪影響の幅広さという点では、非常に根が深い深刻な問題だとも言えるでしょう。
そういう観点からも、「男女だけどただの友だち」の実践事例は非常に有意義なものとして着目すべきものですし、そのことを当然のこととして自然なスタンスで向き合っている我が娘・佐倉満咲らはさすがと言ってよいのでしょう。
ただ、この2人、よくよく見ると昨今ではますます仲が良い。
この絶妙な関係性を維持し合える相手であるがゆえに、お互い稀有な存在として距離も縮まってるというのもあるでしょう。
文化祭の係とかもいっしょに取り組んだりしていたようですし、あと男女数人で出かけたりするときにもメンバーの中では特に「ラブラブ」な距離感(!?)だったり。
最近では「LINE」でのやりとりも濃密な様子ですし、我々親に対して学校での出来事を語る際にも、半分くらいは光太郎が絡む話題だったりもしなくはない勢いです。
たしかに恋人として「付き合ってる」わけではないので便宜上「男女だけどただの友だち」と捉えてきましたが、これはもう「単なる友情」の範疇を越えて、ソコから1歩以上進んだ関係性とも受け取れます。
いったいこの満咲と光太郎の親密性のことを、どう捕捉して何と呼べばよいのでしょうか!?
あまりにも一般的には認知されていなくて概念化されていないので、既存の言葉には該当するものがありません。
「……………………(^^;)」
しかし、ワタシの脳内データベースをサーチすると、何かしらヒットする既視感はありました。
この「男女カップル」ではないものの、2人のあまりの密接度と、深い絆に基づく魂の交流をうかがわせる様子の数々に、思わず「もぅお前らケッコンしろよw」と叫びたくなる感覚……。
そう、コレはアレですね。
いわゆる「百合」コンテンツ内の女の子どうしの相思相愛ぶりを見たときの感覚に近いものです。
(人によっては、日頃から親しんでいるコンテンツのジャンルに応じて、想起するのが「BL」だったりもするかもしれませんが)
そうか、そうだったのか!
つまり我が娘・佐倉満咲さんとクラスメートの鮎原光太郎クンとの関係性は、「男女だけどただの友だち」であるというのもさることながら、むしろいわば【男女だけど百合カップル】と解釈すれば、比較的スッキリ腑に落ちるようなものに近かったようです。
うぅ~む、「男女だけど百合カップル」。
……なんかイイなぁ、やっぱり(*^^*)ノ
既存の「男女」とか「異性愛」とかいった観念を基準にすれば、まったく意味がわからない(^o^;)ところがステキです。
そんなわけなので、ジェンダーやセクシュアリティにかかわる現行社会の「男女ルール」を超越した我が娘の実践を、引き続き見守っていきたいところです。
§自分の子どもに、かように【「男女」のあたりまえ】【「異性愛」のあたりまえ】に囚われない姿勢を称揚するというのは、例えば「LGBTの人たちのことも理解してあげましょうね※」というような十字架を背負わせてしまうこと……であるわけでは決してなくて、むしろ、子ども自身が自分に降りかかる「シスジェンダー&ヘテロセクシュアルの呪い」を自分ではねのけるスキルを身につけ、以て自分自身のありのままのセクシュアリティを自己肯定的に探求し、自己と他者の尊厳を護持しながら、豊かな性と生を享受していける力を培うことであるはずだと考えます。
※そもそも「普通である多数派」が「特別にかわいそうな少数者であるLGBTを理解してあげる」……のではなく、多様で混沌としたひとりひとりのセクシュアリティを各自が自身と向き合って探究しながら生きていくということは、誰もが当事者である「みんなの問題」です。
むろん、本人たちがコノ現状に納得して維持したいと思っていても、周囲からはどうしても女子と男子としてみなされます。
それゆえに、この状態を良好に継続していくための困難も予測に難くありません。
特に光太郎クンの気持ちに将来においては変化が生じて、「なぁ真琴、俺と付き合わない?」事案が発生しないとも限りません。
※『時をかける少女』2006年アニメ版の主人公・紺野真琴がクラスメートの間宮千昭から期せずしてこのように告げられて動揺する
満咲はずっと友だちのままでいられると信じ、終わっていくものなどないと思いたいようですが……。
あるいは、これならまだ本人たちどうしだけのモンダイですが、もっと「これはまた厄介な~」な事象として「ねぇ久美子って塚本と付き合ってんの?」事案が起こる可能性も多々あります。
※『響け!ユーフォニアム』のアニメ第8話で主人公・黄前久美子が、その幼馴染・塚本秀一に恋心を抱いてしまったクラスメート・加藤葉月と三角関係になってしまいかけた際の発端として、葉月からこのように尋ねられる(ただこの作品はこのあと予想の斜め上を行く展開で、本記事の趣旨と照らしても非常に高く評価したい描写を重ねてくれるのですが)
まさか《佐倉満咲さんの高校生活@小説版》のようなクリティカルな波乱まではないとは思いますが、それでもリアル佐倉満咲さんにも相応のピンチが訪れないとは言い切れません。
いゃはや、マジでなかなか厄介です。
思えば、なぜ、このように単に波長が合い相性が良く互いにひかれあう間柄であるだけなのに、そこに「男女」という軸線が入り込むことで、安定した関係を築くことが困難になるのでしょうか?
一般に、男女二元的な性別観と異性愛主義に沿って、異性間なら恋愛、同性間なら友情という単純にすぎる割り切りは、この世界に広く流布しています。
「恋愛」として社会的に認定されるのが「男女」の特定の関係性のみに限定されるのも面倒なことですが、「男女」の特定の関係性が「恋愛」以外のものとしては認定してもらえないというのも、なかなか困ったことなのは上述のとおりです。
しかし実際には、「恋愛」の相手が「異性」だとは限らないし、逆に「異性」との親密な関係性がすべて「恋愛」とも限らない――。
そもそも「恋愛」とは何者で、「友情」とは何と定義されるのでしょう?
その前に、両者に違いはあるのでしょうか!?
このように、べつに恋愛が異性間のものとは限らなくて同性どうしでの恋愛もある…というあたりから思考を進めると、はてさて何がどうなってたら「恋愛」で、それは「友情」とは何か本質的に違うのか!? …という疑問にも行き着きます。
ものすごく好きで、いっしょにいたくて(身体的に接触したい場合もあったり…)、いつも相手のことが頭から離れなくて……というようなときに、それを「恋愛」だと認識するのも、結局は文化的に構成された解釈コードに照らしあわせて判断しているに過ぎません。
で、本当はそうした親密欲求は相手の「性別」にかかわらず起きうるものなのに、相手が「異性」か「同性」かで事実の認識のされ具合が変わるほど、人間関係のあり方が「男女」で区分されて異なるものになっているのは、ひとえに社会の環境のせいです。
そのような現状では、たとえ同性愛者であっても、そういった異性愛主義的な恋愛の解釈コードを一周回した上で援用して、自身の「恋愛」を解釈している可能性もありえます。
そして、そうしたなかで「恋愛」と「友情」は厳然と仕分けされ、「男女だけどただの友情」という関係性の在り方の可能性もまた、不可視化のうちに排除されてしまっているのでしょう。
大いなる損失だと言えます。
もうそろそろ「男女が1対1で《付き合う》」=「恋愛」で、それこそがあらゆる人間関係に優越する至高の関係性だ………みたいな考え方の呪縛から抜け出して、もっとフレキシブルに多層的で多面的なネットワーク型の人間関係を育めるようにしたほうが、みんな豊かに幸せにリアルを充実させられるのではありませんか?
対人関係のルール、もしくは人と人の間柄を捕捉するための解釈コードが、「男女」という概念を通じて厳然と仕切られている現状は、あまりにも窮屈です。
「恋愛」とはこういうものであり、それに当てはまらない親密欲求は全部「友情」…みたいな固定的な切り分けを見直せば、誰もがもっと今より豊かな人間関係の可能性を手にすることができるはずなのです。
◎余談ながら、文化祭をワタシが見に行った際、クラスの仕事で受付カウンターの当番をちょうどしていた満咲と少し言葉を交わしていたところを目撃した鮎原光太郎クンが、数日後にそのことをもとに満咲へ「キレイなお母さんだねぇ」と言ったとか言わないとか……(^^ゞ
過日に満咲がオモシロイとオススメしてくれたとあるWebマンガにこういうシーン(くろせ『ももくり』 comico.jp)があったのですが、コレって私たちとしてはわざわざマンガで読むまでもなく、リアルに再現してしまった形ですネ
《佐倉満咲さんの高校生活@小説版》でももちろん、この「友だちが家に来てキレイなお母さんだねという社交辞令に対しリアクションに一瞬つまる」ようなことはありえる話として初出執筆時から取り入れました(→第1巻)が、リアルでも着々と同一展開を回収中ということで^^;
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※タイトル中の「2015」は、1998年にweb上で公開し、その後『性同一性障害はオモシロイ』(1999 現代書館)にも採録されている「男女間の友情は成り立つか?」を受けたものです(今の基準で読み返すといろいろ穴が多すぎると思える文章ですが;)
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この記事へのコメント
オーバーロード
実はアニメ『セーラームーンR』の第3話でこのテーマに触れたエピソードがありました。それは木野まこと(セーラージュピター)と幼馴染の篠崎という青年の間の関係です。まことというと極度に惚れっぽく、すぐ昔失恋した先輩の影を追い求めてしまう少女なのですが、篠崎との関係は非常に親密であったのに、「恋愛ではない」という扱いになっていたと記憶しています。残念ながらそれ以上掘り下げれることはなく、篠崎がその後は一度も登場しなかったため、やや宙ぶらりんな感じで終わってしまいました。
しかし、少女向け作品というと恋愛偏重の傾向が強かった時代に不十分とはいえ「異性間の友情」」を取り上げたことは積極的に評価できると思います。
佐倉様が書かれた通り、異性間なら恋愛、同性間なら友情という単純な二元論は人間関係を非常に限定して窮屈なものにしていると思います。男女間の友情というとまるで恋愛関係拒否の口実のように使われがちですが(「良いお友達でいましょうね」というやつである)、きちんと独立した価値があるし、意義があるはずです。
ただ、もっと深刻な問題があります。男女間の友情が成り立つかという問いの前に、世の中には「女性には友情は成立しない」「女性は友情を理解できない」という発想が根強く残っています。こんな考えがあっては上記問い自体が成り立たなくなりますが、今でもしたり顔で(時には脳科学の名のもとに)このような偏見を主張する人は後を絶ちません(なお、いわゆる「百合」についても「女の子同士仲がいいのは、全て恋愛である(なぜなら女同士の友情などあり得ないからである)」という発想が基礎にあることがある)。
偏見は二重三重にあり払拭は容易ではありませんが、何としてもやらねばならないと考えます。それでは。
tomorine3908-
ありがとうございますノ
「男女間の友情」はホントに古くて新しいテーマで、なかなか厄介な案件なのですが、異性愛中心主義に囚われず、恋愛と友情の境目を考えなおしてみることで、新しい視点もひらけるのではないかという思いを、昨今はとみに強めておるところです。
コメントにあったセーラームーンRは(別の記事などでしばしば注釈しているとおり90年代は私のアニメ知識の穴の時期で、セーラームーンシリーズについても今世紀に入ってから要点だけ押さえ直してる格好なので)詳しくないのですが、昨今は女の子主人公とそれに近しい男性キャラの関係性もかつてほど恋愛を強調されない事例が増えてきている(響けユーフォニアムのアニメ版での久美子と秀一とか)のは時代の進展だと思われます。同時に女性キャラどうしの友情に重点を置いた作品も、むしろ主流になってますし(プリキュアとかプリパラとか; …響けユーフォも原作だと久美子と秀一もそれなりに恋愛っぽく扱われるにもかかわらず、麗奈との関係のほうが上位に置かれているのは結局アニメと変わらないですしね)
あと、どうしても昨今の「百合」作品の数々に対し、ファンの間でも解釈の戸惑い・混乱が起こりがちなのは、視聴者の受け止めスキルが追いついてないというか、そのための観念の更改が間に合ってないというか、そういう過渡期ゆえのことで、かつやはりそれくらい「百合」の興隆を受容できるだけの時代の進展が早くなっているということかもしれません