「バナナはおやつに入りますか?」に「レオナはおんなに入りますか?」は似ている

さて前記事のとおり、やっぱりプリパラはスゴイのですが、例えばプリパラのレオナのような為人の人物を、男性として扱うか女性として扱うかは、現実世界でのシチュエーションにおいては悩ましいこともままあります。

まるで遠足の前日バナナはおやつに入りますか?」のように。


ところで、この「バナナはおやつに入りますか?」。
バナナがおやつかどうかの議論はだいたい「(遠足の)おやつは300円までとの兼ね合いで発生するものです。
だから、あたかも消費税の軽減税率の対象に含まれるか否かのごとく「政治的に」決定しなければいけない事項となるわけです。

背景には「遠足のおやつとは何か」という命題においても、最後には分けきれない境界線上の存在がどうしても出てくることがあります。
そういう場合に「300円まで」というルールを有効化させるために、ここではバナナはおやつに含まれる(or含まれない)という操作的定義を設定する必要が生じてしまうのです。

つまり、バナナがおやつに入るか否かは、社会的な秩序を維持するための要請から政治的に決定され決着される命題なわけです。

当然ながら、「おやつは300円まで」という要請のほうを柔軟な発想で適切にコントロールできれば、境界線上に位置するバナナの存在の取り扱いもまた臨機応変に最適化することは可能となるものです。

……そしてじつは、これと同じ構造上に「性別」があるのではないでしょうか。

実際には単純に二分できないにもかかわらず、社会的に用意されている性別カテゴリは2つしかない。
だからこそ、「女」や「男」を定義して決定していくという操作が必要となります。

そうして、プリパラのレオナのようなトランスジェンダルな人を「本当は(肉体的に、および戸籍上)」とするか「女性としてごく自然にアイドルしてるから女でOK」とするか、いずれにしても社会における必要から政治的に決定される事項となるのです。

いわば誰が女で誰が男だという社会的な事実は、政治的に定義されたもので、それらに先んじて自然状態としての性別が(社会的に意味を与えられる直前の「生殖に関わる身体差」を除いては)先に存在するわけではないのですね。

そういう意味で、

「バナナはおやつに入りますか?」
「レオナはおんなに入りますか?」

単なる言葉遊びというのみにとどまらず、深いところで同じ構造上にある命題なのではないでしょうか。

願わくば性別カテゴリの執行にあたっては、こうしたことを念頭に、ぜひとも硬直的ではない、しなやかなスタンスでお互い臨めるように心がけたいところですね。

 

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